こんにちは。見習い研究員のHIROです。
できるのであれば、いついかなる時も親切であったほうが良い。
そう考えている人は少なくないと思います。
できるだけ人には親切にしてあげたい。困った人を助けたい。立派な志です。
しかし本当にそれが正解なのでしょうか。
今日はいつも親切をすべきなのか、そうでないとしたら理由は何か、考えていきます。
親切は万能ではない
まず結論からお伝えしますと「親切は万能ではない」です。
過去の記事でも書いてますので、お分かりいただけるかと思います。
ではなぜそう言えるのか。
親切のタイミング
親切の重要ポイントとしてタイミングが挙げられます。
どんなに良いことでも、相手の状況を見極めて必要な時に行わなければ、効果は望めません。それどころか却って状況を悪くしてしまうかも。
相手によって変わる効果
同じことを行っても、同じように効果があるとは限らない。
親切は相手あってのことなので、親切の受け手によって効果は変わります。
さらに同じ相手でも、同じ効果が見込めるかというとそうでもありません。
相手も日々変化しています。以前とは趣味趣向が違っていても不思議ではないのです。
親切心と親切の間
相手に対して、親切をしたいという優しい気持ちを持っていても、上手く親切ができるとは限りません。
親切はスキルの一つです。上達するためには気持ちも大切かもしれませんが、何よりも練習です。それも適切な理論に基づいた意識的な練習が必要とされます。
しばしば親切が失敗してしまうのは、そうした練習の伴わない、想いだけの行為であることが一因です。
なぜ親切は行われるか
このように親切は万能ではありません。むしろ、以前に説明した通り、リスクのある行為です。
ではどうして親切は行われるのでしょうか。
親切する側の都合
親切が行われる理由の大部分は、親切をする側が親切をしたいからです。
背景は色々とありますが、突き詰めて考えると、そういうことです。
親切を受ける側の依頼
親切を行う側ほどではありませんが、依頼されて親切を行うというケースもあります。
また依頼自体はそれほど大きな親切を必要としなくとも、親切を行う側が慮ってあれこれ親切を付け加えることもよくある光景でしょう。
TPOによる判断
国や民族など社会的・文化的に、TPOに沿った行動というものがあります。
事例の多少はあると思いますが、どこの社会でも半ば自動的な親切とでもいうべき行動様式を備えています。
例えば、複数の人でドアを通過しようとするときに、先に出た人がドアを押さえる。
特に意識することなく行っている人もいるため、あまり親切という感じがしないかもしれません。
親切がいらない時
このように様々な理由から親切が行われています。
しかし実際には不要なことも多く、親切をしないことが親切となるような状況があります。
明らかな干渉
相手の意思を無視した親切は、親切ではなく干渉です。
「こうした方が良いのに」という思考は、事実としてその通りだったとしても、相手を自分の思うようにコントロールしたいという欲求の現れです。
相手を一人の人間として尊重しようという意思があるのであれば、可能な限り相手の意向を確認しましょう。
見守る方が有効
なんでも自分でやろうとか、自分ならできると思っていないでしょうか。
相手に任せた方が上手くいくということも、往々にしてある話です。
自分がやった方が、相手にとって良いと言える理由を見つけてから、親切をしても遅くないのではありませんか。
周囲に負担をかける
自分が行った親切によって、周囲への負担が高まることがあります。
例えば、顧客の期待を大幅に超えるような対応をしてしまったために、他の同僚も同じレベルの対応をしなければならなくなるケースが考えられます。
経営者目線で考えれば、会社のサービスが良くなるのはありがたいことですが、余計に人的資源を割かれることになるため、あまりありがたい話ではありません。
また同僚からしても、他にやるべきことや注力したいことがある中で、そうした予期せぬ負担は望ましくないでしょう。
まとめ
親切な行いは、どんな時でも歓迎されるわけではありません。
むしろ行わない方が親切という場面もあります。
親切心は素晴らしいですが、一方で相手や周囲への気遣いを忘れないようにしましょう。
今日のお話が他人に優しくしたいという人の親切を効果的なものにすることに役立てば幸いです。
ではまた!
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