こんにちは。見習い研究員のHIROです。
今日は親切の限界について、考察を書いていきたいと思います。
親切の限界とは
親切には限界があります。
その限界とは「相手を変えることができない」ということです。
人が親切をする、そもそもの理由はなんでしょうか。
それは困っている相手を助けたいと思うからです。
では本当の意味で、究極的に助けるということはどう言うことでしょうか。
それは、相手が自分自身で困りごとに対処できるようになることです。
そのために、相手が能力を向上させたり、より良い選択ができるように手助けをすることはできます。
丁寧にわかりやすく教えてあげたり、習慣化を手伝ってあげたり。
でも私たちが、その人の能力や性格を変えることはできません。
変えるのは、その人自身しかできないからです。
親切に限ったことではないのですが、外からの働きかけで人が変わることは、まずありません。
むしろ人から強制されると、大抵の人は抵抗します。
正論はしばしば上から目線のように感じられますし、強制されて良い気持ちのする人は多くありません。
だから親切では人の悩みが解決しない
また、何かをしてあげることは、その人の能力を伸ばすことにプラスには働きません。
有名な話ですが、過去の社会実験で貧困撲滅のためにお金をあげても問題が解決に向かうことはありませんでした。
お金の扱い方が身についていないからです。無駄なことや日々の生活に使って、終わってしまいます。
親切も同じです。相手の悩みを、根本から解決することはできません。
一時的に苦境を助けてあげることはできます。
でも、ずっと助けてあげられるわけではないのです。
例えば電車でお年寄りに席を譲ったとしても、それ一回きりです。
次からそのお年寄りは、席を譲られず立ったまま電車に揺られることになるでしょう。
つまり、親切は人の悩みを解決できないのです。
それでも親切をした方がいい理由
にもかかわらず、当ラボでは親切を増やそうとしています。
なぜか?
答えは「そのほうがより良いから」です。
完全を目指そうとしたら、恐ろしいほどの労力がかかります。
でも、ちょっとの改善で良ければ、誰にでも、すぐできます。
そして、これは必ずというわけではありませんが、誰かに親切をしようとすれば、自分の中の何かが変わる可能性が出てきます。
例えば、お年寄りに席を譲ろうと思った場合、次のようなことを考えます。
いつ声をかけようか、どうやって話そうか、周囲の状況はどうか。
ただ座っている時はそんなこと思いもしません。
スマホを見たり、本を読んだり、音楽を聴いたり。
それらが完全に受動的とは言いませんが、親切をしようとした時の方が能動的ではありませんか。
「情けは人のためならず」
親切をしようとすることで、変わるのは他人ではなく、自分なのです。
そして変わった自分は、今までよりも良いことをしやすくなっています。
限界があることと、無駄なことは違います。
何か親切をしてそこで問題解決というのはあり得ませんが、親切をしても全くの無意味ということもあり得ません。
いきなり良いことをするのが難しくても、考えて、行動して、反省して、また行動すれば良いのです。
当ラボも少しずつ考えて、行動していきます。
今日はここまで。ではまた。
【工事進捗】
・目次機能が使えるようになりました。
コメント