こんにちは。見習い研究員のHIROです。
親切をディスる言論は意外と多いものです。過去の投稿にもそんなのがいくつかありましたね。
これらに加えて今回は「親切は偽善ではないか」という批判について考えていきたいと思います。
そもそも偽善とは
偽善を説明してみると
それにしても偽善とはなかなか奥深い言葉です。
とりあえず辞書を引いてみると、
うわべをいかにも善人らしく見せかけること。また、そういう行為。
出典:goo辞書
むむむ、「善人」という謎のキーワードが出てきましたね。
「善」がよくわからないので、再度辞書を引き直しましょう。
よいこと。道義にかなっていること。また、そのような行為。
出典:goo辞書
おお、「道義」ですか。わかったような、わからないような。
諦めずに辞書を引いていきます。
人のふみ行うべき正しい道。道理。
出典:goo辞書
なるほど。では以上をまとめてみましょう。
偽善:人間として行うべき正しいことをしているかのように振る舞うこと。
表面は正しそうに見えるけれど、本質的には間違っている。
そんなニュアンスでしょうか。
“正しさ”を決めることの難しさ
では「人間として行うべき正しいこと」とはなんでしょうか。
人類の歴史を少し振り返ってみれば、2つの主張が見えてきます。
「正しいことはある派」と「そんなのない派」です。
さらにざっくりまとめると以下のような感じです。
今残っている正しさこそ本物よ!
なぜなら長い年月を経て生き残ったじゃない
いやいや、そんなものはない!
後から「実は間違っていた」ってこともあるじゃないか
どちらも大変説得力があります。
ただ、どちらが正しいか決めるためには、人類の歴史が終わってからでないと何とも言えないのですが。
親切は偽善か
偽善の何が問題か
どうやら正しさを決めることは、なかなか難しいようです。
善が何かわからないようでは、偽善もよくわかりません。
であれば、どうして偽善はいけないと考えられているのでしょうか。
先程の説明から考えるに、外見はいいけれども中身が悪いのが問題なのです。
例えば外見は素晴らしくかっこいい自動車があったとしても、故障ばかりしていては使い物になりません。
偽善も同じで、正しそうに見えても、全く役に立たないか害を及ぼすからダメなのです。
親切が偽善になる時
となると親切が偽善になるパターンとして、次の2通りが考えられます。
役に立たない親切
親切をした当人はものすごく良いことをしたと上機嫌ですが、された方の相手は不要のことをされて困惑している。
そんな場面が思い浮かびます。
まあだからといって「偽善者」呼ばわりはちょっと可哀想な気もしますが。
別の目的がある親切
何か見返りをもらうことを意図して行う親切です。
例えばお小遣い欲しさにおばあちゃんの肩を叩く、好きな子に近づくために手助けを申し出る。
これらは程度問題ではありますが、偽善になりうる行為ですね。
親切は必ず偽善になるわけではない
とはいえこれらは全て可能性の話です。
親切は確かに偽善になる可能性をもっています。
だから「親切なんて偽善だ」というのは半分正しい。
ただそれはコインの半面しか言い表せていません。
もう半面では、困った人を助け、励まし、大いに役立つこともあります。
「親切は善と偽善が貼り合わせになっている」というのがより正確なのではないでしょうか。
まとめ
親切は良いことです。
でも悪い結果をもたらすこともあります。
親切全般を「偽善だ」と取り扱うのは不当ですが、「これは偽善かもしれない」と疑う姿勢はむしろ誠実さの表れです。
と言っても無闇に自分を疑う必要はありません。
疑いを持ったのであれば、確かめればいいのです。
今回の記事がそのお役に立てたのであれば幸いです。
ではまた。
コメント