人の特性を測ることは複雑な作業です。
理由はいくつかあります。
その一つが「何を持ってして判断するのかが必ずしも明確ではない」というものです。
資格であれば実施回数や従事した年数など経験によって、その能力を保証することもできるかもしれません。
では人の親切さを測る場合、いつまでに何回親切をしたかで判断することは可能なのでしょうか。
今回は親切さを回数で測ることができるか考えます。
親切を回数で測ることの難しさ
結論からいえば、「親切を回数のみで測ることは難しい」です。
以下理由を挙げていきましょう。
親切の数え方が曖昧
どこからどこまでを1回とするのか。
そもそも親切の数え方が曖昧という問題があります。
例えばある人に対して連続して親切を行ったらどうカウントするのか。
時間がどの程度開けば、別の親切としてカウントするのか。
どんなロジックで数えるのか、考えておかなければいけません。
機会と行動の割合
親切をしようとしても、機会が限られる人もいるでしょう。
普段あまり人と接する機会がないという人もいますが、それを持って親切ではないとはいえません。
また親切を同じ回数した場合であっても、親切をする機会と比較して少なければそれは親切な人と呼んでいいのか、疑問が残るところです。
得られた機会に対してどの程度行動に移すことができたのかが親切さの一つの目安かと思います。
何をしたかにもよる
単純な回数で測定することの問題点の一つは、内容を考慮していないことです。
何かものを取るとか席を譲るとか簡単な親切から、相手の人生や生命に関わる重大な親切まで内容の重みが異なります。
親切さを測るにはこうした「何をしたか」も考える必要があるでしょう。
親切さは客観的に測る必要はない
そもそも客観的に親切さを測る必要はないです。
理由は2つあります。
1つは正確性に欠けること。
もう1つは親切さを感じるのは個人的な体験であるということ。
以下順番に見ていきましょう。
事実について正確な情報が手に入らない
同じ人をずっと観察することはできません。
その人が朝起きて、何をして今ここにいるのか。
同居人でもないかぎり、知る由はないでしょう。
瞬間を見ることはできます。
何をしたか、その場面だけは見えます。
でもその前後は見えません。
正確な状況がわからないのに、その行動の意味するところを判断していいものでしょうか。
親切をどう体験するかは個人による
親切をしている場面を見たとして、どう評価したらいいのか。
大切なのは親切をした人とされた人の気持ちです。
それぞれに内面で体験していることがあるはずですが、外野にはそれがわかりません。
想像することはできますし、体験が表情や仕草などの態度に出れば、ある程度共感することはできます。
しかしそれはその人の体験とイコールではありません。
また当事者だけが強い感情を抱くわけではないです。
むしろ外野の方が感動する場面もあります。
親切をどう体験するか、それは個々人によって全く違ってくるのです。
注意点
「え、今回注意するところあった?」
と思われるかもしれませんが、親切さを客観的に測る必要はないという意見にも注意すべき点はあります。
親切を客観的に測ろうとする試みには価値がある
「する必要のないことを勧めるのか」
と思われたかもしれません。
今回、お伝えしたかったのは「親切さを客観的に測ることは難しい。だからする必要はない」ということであって客観的に測ろうとすること自体には別の価値があります。
例えば、
・事実をしっかり観察する
・身の回りの親切を探す
・親切の本質を考える
などどれも親切をしていくにあたって役立つことばかりです。
価値判断をする必要はありません。
でも親切について様々な視点から考えることには価値があるのです。
まとめ
・親切は回数では測れない。そもそも客観的な評価は難しい
・正確な事実を掴めないし、個々人の体験を共有できない
・ただし評価を下すことと評価を考えることは別
・親切について考えることは価値がある
ではまた!
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